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「京からくだる 唐絵の屏風
一重にさらりと ひき申さいな」
この一節から始まる三増の獅子舞をご紹介致しましょう。
<歴史>三増は中世の頃から栄えたところで、、甲斐(山梨県)から小田原・大山に通じる街道の宿場でした。今でも地名に上宿・下宿・裏宿など、その昔を偲ぶ名称が残っております。
永録12年(1569年)10月8日、甲斐の武田信玄が小田原の北条攻めの帰途、三増の山野で両軍数万に及ぶ合戦があり、これが三増合戦(中原地区に記念碑があります)と言われ、今に伝わっております。3千とも4千とも言われる戦死者で、三増の山野を血で染めました。
これより先、文暦2年(1235年)創建の諏訪神社があり、この別当寺に応徳元年(1084年)開創の甘露山清徳寺があります。このお寺には鎌獅子(愛川町重要文化財)と呼ばれる獅子があり、近隣で疫病などが流行すると厄霊払いに出向いておりました。獅子舞はこれと違って門外不出とされ、神社を中心に1町(110メートル)以内から出ない掟がありました。三増は前に述べたように上宿・下宿・裏宿・谷戸・馬込などの部落に分かれており、その中央の上宿・下宿に当屋を作り、獅子舞連中は支度をして神社へ向かいました。
上宿の倉(当屋)は三河屋、下宿の倉は河内屋で、毎年交互に道行き渡り拍子で進み、神社の境内に2間4方の忌竹・しめ縄をめぐらし、舞場を作って舞を奉納しました。
明治の中頃、2度も大火が発生し、古文書が焼失し、その生い立ち・歴史は明確ではありませんが、舞に使われる木彫りのバンバ面(フクベ塗り)の裏に、慶寛法印の銘があり、このお坊さんは諏訪神社の別当職で清徳寺のご住職で、享保12年(1727年)に没していますので、その頃にはすでに行われていたことはわかっています。この舞も明治の大火などによって中断していましたが、昭和3年御大典を機に、古老の指導で復活しましたが、太平洋戦争で中断し、昭和30年に再度復活し、昭和36年に、神奈川県無形民俗文化財の指定を受け、現在に至っております。
<獅子舞>この獅子舞は雨乞い・五穀豊穣など、時に応じて舞った古式ゆかしいもので、1人立ち3頭獅子と呼ばれ、3頭の獅子がバンバの音頭により、笛師の合図と共に、歌師の繰り出す23連の歌に従って太鼓を打ち鳴らして舞い続けます。行列(道行き)の順序は、日月の旗2名・花笠4名・天狗1名・バンバ1名・獅子3名・笛師数名・歌師数名からなっています。
舞曲には「くるい」2・「ねまり」3・「とうはつは」6・「7つ拍子」7・「くるい」5からなり、歌詞に合せて舞いが変化して行きます。
獅子は巻き獅子(父)・玉獅子(母)・剣獅子(子)の3頭朴材で作られた獅子頭は、丹塗乾漆で仕上げられ、目・耳・鼻・口・口毛・髪など、誇大表現してあります。これは邪を避け魔を除く意を表したもので、雨乞い・その他時に応じて舞いました。3頭の獅子が着用するものは、麻地牡丹に唐草模様のカルサンで、胴体に太鼓をつけ、手甲脚絆草履となっています。
この舞は諏訪神社の摂社八坂神社の天王祭である7月20日(現在はその日に近い日曜日)に、行われています。
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